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こんにちは、minamiです。

 

朝晩の冷え込みが秋の訪れを一気に秋の訪れを感じさせますね。

 

ブログを夜書いていると昔の記憶が思い出されて、寝不足気味になってしまいました。

 

暗い思い出は昼の内に書いてしまったほうが「感情日記」の効果も期待できそうです。

 

 

子どもの頃の両親の離婚、母のことを思い出しながら書いています。

 

 

↑からのつづきです。

 

母が私たち3姉妹を連れて父から逃げて、新しい生活が始まりました。

 

それからしばらくして(2週間後くらいだったと思います)父が私達を探し当てて訪ねて来ました。

 

実家に行ったと思っていた妻子がなかなか帰ってこないのを不審に思い、母の実家や親せきに居場所を聞きまわったのでしょう。

 

こうなる前にも、よく父から逃げて実家には帰っていました。

 

長いときはひと月以上、祖母の家から叔父の車で幼稚園に行ったこともあります。

 

父が来たとき、

 

おそらく修羅場だったはずなのに、その時のことはあまり記憶にありません。

 

ただ、父は私たち姉妹、特に長女の私はとても可愛がらていたので、会えて嬉しかったのは本当です。

 

そのときは、母の親戚もいたので、父はなだめられて帰りました。

 

母が慌てて親戚のおじさん達を呼んだのか、父が親戚に連れて来られたのかどちらかだと思います。

 

どちらにせよ離婚するなら手続きがあるので、父と話し合わなければなりません。

 

母は、もう戻るつもりはないとハッキリ告げたのでしょう。

 

その後も、父は何度か母を説得に来ました。

 

母の覚悟は決まっていたし、母の親せきの叔父さんたちも来て間に入ってくれていたので、小心者の父は諦めざる負えなかったのだと思います。

 

そういえば、あまり覚えていないけれど。

 

父は私を連れて釣りやドライブに出かけたり、仕事場にも連れていかれたこともありました。

 

相当可愛がられていたと思います。

 

その後(多分離婚を受けれて)父は、母に頼んで私を連れてドライブに出かけました。

 

 

最後の2人旅です。

 

冬の東北の海で海鮮鍋を食べたりしました。

 

それが父との最後の思い出です。

 

もしもまだ父が生きていたら80歳前後。

 

もう40年以上も会っていないので、会いたいとも何とも思いません。

 

母が今後一切連絡をしないように、関わらないように言ったのかもしれません。

 

DVと働かないことが離婚理由ですから、養育費ももらっていなかったと思います。

 

女手一つで頑張ってきた母には並々ならぬ苦労があったし、感謝しています。

 

 

昔はこういう本も考え方も浸透していなかったですよね。

 

 

若かりし日の母が読んでいたら結果は違っていたのだろうか?

 

そもそもお金が無さ過ぎて買えなかったかな。

 

図書館にあっても借りずらいですしね、、、。

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